こんなん書きました。

日々の雑感をつらつらと。あるいは手に入れたアイテムのオススメなポイント、運用方法などをご紹介してみたり。

釣りと料理の共通点。プロセスを楽しむということ。

シェアした先で「料理を好きな釣り師は信用できる」と書いてあるけど、全面的にそれを肯定することが私にはできない。
釣りを通じて知り合ったなかで私がもっとも、というか、唯一軽蔑している人物はイタリア料理店のオーナーシェフなんだよね。
ま、例外中の例外がたまたま、という不幸なケースじゃないかという自覚はある。
 
それはともかく。
キャッチ&リリースしかしないってケースでも、私の周囲を見回してみるに、釣りを楽しむ人は料理ができるケースがそもそも多い気がする。
料理ができるかできないかで言えばできる人ばっかりだ。
外遊びのときには自分のご飯くらいなんとかできなたほうが、楽しみが増すこともあるしね。
釣り友達の大半は料理ができる。これには釣りも料理も楽しさの構造がとても似ていることが大きく影響していると思う。

釣りたい魚、シチュエーションを想像して道具を買い揃える。
釣行日程を立てる。
季節や天候、場所に応じた道具を用意する。道中の空を見上げて1日の天気を推し量る。
釣り場の状況に合わせて仕掛けや糸の先に結ぶ毛鉤、ルアーを選ぶ。
釣れたら釣れたことを喜ぶ。
釣れたパターンを考えて、さらに釣果を伸ばす方策を考える。
釣れなかったら帰り道、「なぜ釣れなかったか」を考え、「次はこう対応しよう」と策を練る。
道具の後片付けをする。あるいは後片付けは先延ばしにしてふて寝する。

釣りって遊びを乱暴に分解してみるとこんな感じだろうか。
こうして並べてみれば明らかなんだけど、釣りって遊びはただひたすらにこれらの繰り返しであり、私ら釣りを楽しむ人はたいていがこれらひとつひとつの要素をどれも楽しんでいる。

釣れないよりは釣れたほうが楽しいのはもちろんだ。
しかし、釣りという遊びにこれから染まっていく初心者ならともかく、ずっぽりと首まで浸かった人間にとっては、「釣れたかどうか」は一連のルーチンにおけるほんの些細な分岐条件のひとつに過ぎない。そもそもが、だ。プロセスを楽しめない人は、結果の如何で継続性が左右される。「釣れないからやらない」って人は「趣味は釣りです」と言えるほど、釣りという遊びを長く続けない。結果の如何に関わらず、過程と、さらには結果が出た後に楽しみを見出した人だけが釣りを趣味としていくのであるよ。もっとも、私の周りには釣りの合間に仕方なく人生を送っているような人ばっかりな気がしないでもない。はたしてそれらの人にとって、釣りを「趣味」と呼んでいいのかどうかは大いに疑問の余地がある。

話がそれた。

料理って行為を考えてみるに、けっきょくは出口に「食べる」というクライマックスが待つ、プロセスを楽しむ行為なのだと思う。
食べたいもの、作りたいものを考えて材料を揃えるところからはじまって、食べるという行為でいったんは完結。うまくいったらそれを喜び、失敗したら反省を次に活かすことを考える、というループを楽しむわけだ。
もちろん「家族のため」とか、あるいは「仕事」としてとか、「義務」として「やらされている」ために、「楽しみなんてひとつも感じない」っていう人はいるだろう。
そういったケースを除いて考えるなら、「失敗したからやめる」と思わない人は、釣りと同じように結果の如何に左右されず、「できるまで続ける」。
料理をする人、できる人は、やっぱり「プロセスを楽しめる人」なのだと思う。
 
そういえば、自身を「料理をしない人」と称していながら、1万6千円以上、専用の蓋をつければ約2万円という超高級なフライパンの購入をずっと悩んでいる人がいる。
れはもう立派に料理という行為に楽しみを見出している「料理をする人」だと思うのだが。
考えてみると、その人は釣りこそしないがやっぱり「ものをつくる」というプロセスを楽しむ趣味を持っている。
もちろん「プロセスを楽しめる人」だからとすべてが釣りや料理を楽しいと思うかは別の話ではあるけれど、傾向に大きく影響することは間違いないんじゃなかろうかね。