Facebookの「ノート」が2023年11月に一斉に削除されるそうで、そこからサルベージしたものをここにアップしてみることにする。
もともと2013年11月26日に個人のウォールに書いたものをノートにアップしたものだ。
【亡父の十三回忌を前に。】
12月の中旬に亡父の十三回忌を執り行うことになった。
もうそんなに経つのか、という思いが強い。
実際に亡くなったのは1月13日、だったかな。
あれはその年初めて編集部での作業へ出向いた日で、担当編集者たちの打ち合わせが終わるのを一人待っているときだった。
携帯電話に妹からの着信があった。
「お兄ちゃん、どうしよう? お父さんが動かないの」
父は亡くなる何年も前に癌を患い、半年のあいだに3度ほどの手術を経験。以降はめっきり体力も落ち、2階の自室へ上がるのも厳しく、1階にベッドを運んでそこで生活していた。
認知の症状も出はじめ、ほぼ家から出ない生活。
母はその頃、立ち上げた介護関係の仕事がかなり忙しく、留守がちで、妹がときどき顔を出し、日中の様子を見るという状態だった。
妹は私より先に結婚して家を出てはいたものの、実家から徒歩で2~3分という近所に住んでいたのだ。
「なんか死んでるみたい。どうすればいい?」
文字にすると平坦だが、涙混じりと思われる震えた声には、強い動揺が現れていた。
私が伝えたのは、救急車を呼べ、ということ。
蘇生の可能性があるにしろ、すでに手遅れであるにしろ、その後のあれこれも含めて、救急車を呼ぶことですべてを“慣れたプロの手”にゆだねられる。
わかった、と妹は電話を切ったのだが、問題は私のほうだ。
編集部の全体会議で、伝言を残すにも編集部員がひとりもいない。
メモを書き残しておけばよかったのだが、私も内心、かなり動揺していたのだろう。
担当編集者たちが戻るのを、ただじりじりとしながら待っていた。
結果的に編集部を出たのは2時間近く経ってからだった。
これが父が亡くなったあの日の思い出。
聞けば妹が到着した時点で亡くなってから数時間が経過していたそうだ。
実のところ、私と父は非常に折り合いが悪く、最後に顔を合わせてから、確か1年ほど、いやもしかしたら、もっと長い時間が経っていた。
今にして思えば何がそんなに許せなかったかと疑問な部分もないではないし、ほかにやりようもあった気はする。
しかし、それはこれだけの時間が経過したからこそ思えることであって、当時としては、距離を置くことだけが関係維持への精一杯の努力だった。
今でもふとした瞬間、あのときの電話で聞いた妹の声が脳裏によみがえることがある。法事の日程が決まった、と母からの連絡を受け、ひさびさに当時のことを思い出した。
(2013年11月26日)